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歌の世界で「花」といえば「さくら」、 「落花」も「散るさくら」となっている。 つまり一つの現象を二通りの言葉で表現した。 春宵一刻は蕪村にとっても値い千金だった。 この現代、京都の夜桜はあちこちでライトアップ、 とても春宵一刻とはいかない状態で、江戸時代の、 けだるい様なはかない様な、 なまめいた時間はなくなった。 |
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春の季節が躊躇いながら移動していく、 それを見送る様に遅咲きの一本の桜が 咲いている。 晩春の風景画の点景として 遅咲きの花をもってきた。 蕪村の絵の具皿にはすでに淡い緑が 用意されている筈だ。 |
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御室の桜が話題になると都の春も最終段階、 此処の桜は樹が低いので有名、 これは地下の岩盤が近いせいだと学者が言った。 また「鼻は低いが器量良し」と鼻の低い女の子の 言い訳に使われた。 あちこちと花見に出かけた疲れと、 木の芽時の気温も手伝ってこの時期、 終日眠たい。 ねむい原因を持ってこられた御室のさくらこそ 良い迷惑というもの。 |
![]() ※実験・銀箔使用 |
とくに珍しくもない風景、とりたてて作為もない句、 ところがこれこそ蕪村の真骨頂。 「ひねもすのたりのたりかな」も 「月は東に日は西に」にしても、 なんとも茫洋とした大きな景色に向かっていると、 蕪村の繊細な神経が震え出す。 多分、故郷の毛馬の近くの淀川なのだろう。 とすると「望郷」の景色なのかも知れない。 |
![]() ※実験・銀箔使用 |
これも前の句に近い、大きくて優しい景色 句として味わうよりも、映像として想像してみた 方が美しいのでは。 絵にした時に、春雨はどの様に描くのだろう。 雨を降らせている雲がゆるやかに移動する。 いざようのは月ではなくて雲が動くからだろう。 前の句にしても、この句にしても人の姿が見えないが絵にした時にも描かないほうがよいのだろうか。 |
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春の長雨の跡、治水が行き届いた現代では 想像も難しい晩春の景色。 腹立たしい状況も句にしてしまう。技量では なくおおらかな器量なのだ。 蕪村の視野には水だけでなく、雨後の いきいきとした新緑も入っていた筈で、 若々しく清い気持ちよい句と思う。 |
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