山頭火(さんとうか)



燕とびかふ旅から旅へ草鞋を穿く

燕の飛んでいる姿は、他の鳥とは異なる、
優雅さものんびりさもない完全に愛の姿であり、
労働の姿である。
南の国から到着するやすぐに営巣のための泥運び、
産卵、養育のための餌運び、夫婦の懸命の活動、

この姿に触発されて、山頭火は今日も出発する、
決して暢気な乞食ではなくまして吟行などではない。





また見ることもない山が遠ざかる

この様な事は海外へ行った時によく感じるし、
また「会者定離」のことわりもある。
しかしそんな当たり前な感傷でない。
昨日出会ったもの、
今日朝から出遭ったものすべて、
うしろへ突き放し、前へ進む。
燕の飛ぶのををみて、
草鞋をはいた者の姿としては、
そのようなことだったろう。




飲みたい水が音たててゐた

喉の渇きほどつらいものはない。
殊に酒飲みにとっては実感として充分理解できる。
山頭火も相当に飲んだ人らしいから、
旅の途中湧き水の音、
流れの音にかなり敏感だった。
山頭火の「水」に関する句には
理屈抜きの「忘我」の姿勢が出ているようでほほえましい。





しとゞに濡れてこれは道しるべの石

これも行乞の句、
当然自身もずぶぬれの姿。
表街道の石は背丈より大きい 、
しかし脇の街道、村はずれ、
山中の道標は
背も低く近づいてしゃがんで見なければならない。
左へ行くか、右へ行くか、
どちらへ行っても晴れ晴れとした青空がある筈はない。
衣を通した雨に濡れたまま今日も歩く。





しづけさは死ぬるばかりの水が流れて

死の少し手前で生きている。
生を詠んだ句も多い、
が常に「死 」に向きあっていた。
しかし「死」がテーマではない。
私でも感じるが、
おそらく「三途の川」は青くもなく黒くもない、
ただ静かに流れている筈。
そんな光景が現実に、
山頭火の前に有った。





すゞしく蛇が朝のながれをよこぎった

単なる涼しさではなく、
蛇と、蛇の水紋の鋭さが際立っている。
どんな種類の蛇かわからないが、
手足のない動物さえ
この様に「苦」もなく「渡る」ことが
不思議だったかも知れない。
素直に涼しさと静けさを受け止めます。
が確かに鋭い。




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