山頭火(さんとうか)



こころつかれて山が海がうつくしすぎる

宮崎へ行乞に出たときの事と解説されている
本来、 山のほうが性にあう山頭火であるが、
芯から疲れてしまうと海もまた新鮮に心打つ対象だった。
しかしそれも一時的なもの、 すぐに山に戻る、
山の静かさと、 不動の姿が彼の求める理想だった





山のしづかさへしづかなる雨

山頭火の山に対する構え方は前の句にも書いたが、
不動の山の姿・自らが追いもとめる不動心。
その山を潔斎するように雨がふる、
潔斎したいのは山ではなく自らのこころこれもまさに秀句、
季節は秋とは限らない。




いづれは土くれのやすけさで土に寝る

いつ、どこで、なにかがあって生を終わるかも知れない
行乞の日々である。
旅の出発にはいつもこの覚悟が改まっている筈、
しかし本当に土くれになる覚悟とは。
考えると羨ましい境地、
まず土の上に寝転んだことの記憶さえ、
遠い子供の頃。





落ちかかる月を観てゐるに一人

月の形は不明、場所も時刻も明らかでない。
月を観るにそんなことは一切無用月を観るには一人に限る、
傍にいる人間は無用
しかし、昇る月と落ちる月、同じ月であるが
これほど印象の異なる物体はない。
落ちる月ほど、はかなく孤独で、無常観さえ漂う。
この場面で一人なのだ。





一すぢの水をひき一つ家の秋

ただでさえ人恋しい秋、
人里離れたところにも人間の営みを見つけた。
山頭火の人恋しい感情と、
孤独感が溢れているこの一軒家にも
小さな幸せがあるだろう
そしてひっそりとした家族が暮らしを営む一条の水が
それを証明している。





物乞ふ家もなくなり山には雲

すでに水を引いた一軒家もなくなり、
行き暮れた山頭火なんとなく襲ってくる虚脱感と
疲れ乞食の行もこの状態では成す術が無い
ただ眺めるしかない白い雲。
しかし、このような時こそ
行乞の真の「行」ではないだろうか
まだまだ山頭火の行はつづく。




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