山頭火(さんとうか)



朝はよいかな落ちた葉も落ちぬ葉も

枯れてゆく風景の中にあって、美しい生命を讃えた句
だろう。積極的な気分のなかに枯れた精神背景が見えて
美しい。





誰も来ないとうがらし赤うなる

何処の道を歩いていたのだろう。誰に見られるでもなく
小さな生命が息づいている。鑑賞用でもなく主菜でもな
い地味な植物の色に着眼した。実に見事です
この赤い色は「侘び」の赤さ、唐辛子ゆえになおさら寂し
さが増幅している。




藪で赤いのが烏瓜

独特の短律詩、これも完全な「侘び」の世界、枯れがれの
藪に縦に連なる赤い点々、前作の唐辛子の赤や烏瓜の
赤は、老骨の山頭火に宿る熱い血を象徴しているのだろ
うかと想像するが、となるとかなり野暮ったくなる。
ここは単に秋の風景と見ていたほうが正しい。
(この絵はうっかりして大徳寺の竹藪の烏瓜を
   描いてしまった)





熟柿のあまさもおばあさんのおもかげ

柿の赤さが追想を促す、山頭火には柿の句が幾つも
ある。よほど身近な存在だったのだろう。熟柿のすがた
は「終の」すがた、「終のすがた」になって仕上げたこの
甘さ、想いは急に遠い存在になった御祖母さんに飛ん
だ。山頭火もやはり人の子だった。





足音が来てそのまま去ってしまった落葉

孤独と寂寥の日々、やはり人恋しい。心の中でいつも
来る人を待っている。そんな心境がつい句に顕れた。
一瞬、心が動いたがその後は又落ち葉の風景、落ち葉
が音を吸い取って静かさが拡がる。寂しさも拡がる。





枯れゆく草のうつくしさにすわる

枯れ草が美しいと見られる心境、老境だからこその
山頭火の観察眼。単なる観察だけでなく心が添うて
いる。枯れ草に坐るのはやはり枯れた精神の持ち主
でなければならない。枯れきった彫像のようだ。




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