能・夢現(ゆめうつつ)


その20 忠度(ただのり)

二人の旅僧がやって来た。
京都から鳥羽離宮をでて大山崎に、高槻の芥川を越え、有馬から摂津・昆陽の池を経て、ここ須磨の浦にやってきた。
歌にも読まれた寂しい景色、塩焼きの煙が浜の松にたなびき、千鳥のこえ、遠くに小舟が漂うている。
桜の若木が、今を盛りと咲いている。一人の男に出会った。
「日暮れが近くなってきました、一夜の宿をお願い出来ませんでしょうか。」
「おかしい事を仰いますが、この花の蔭ほどのお宿はございませんでしょうが」
「なるほど、花の宿には違いませんが、はたしてこの宿の主人は?」
「行き暮れて木の下蔭を宿とせば 花や今宵のあるじならまし」と詠まれたのは、この苔のしたに居られる方です。薩摩の守忠度と言われたお方の縁故のかた達が、このしるしの桜を植えられました。」
「そうでしたか、これは不思議なご縁です、かっってはお互いに、藤原
俊成の和歌の同門だった。」
この不思議な男は、手向けの読経を聞き、花の蔭から桜に宿るように
して消えてしまった。




薩摩の守忠度は歌道をよくなされたが、勅命によって俊成卿が編纂した 「千載集」には選ばれなかった。
西へ向かう軍旅の途中、山崎辺りから侍五騎、童一人をつれて都へ引き返し、俊成卿の屋敷に着いた時はすでに夜、門は開かれなかった。
忠度は大声で叫んだ。
「撰集のお沙汰があったと承っておりますが、
この様な世の乱れ、この後、世の中静まりて 、撰集のお沙汰が有りますれば、この巻物の中、一首なりともご恩を蒙りたい、草の陰におりましても嬉しく存じます」
と日頃書き溜めた中の優れた歌、百首をお届けした。
これは歌人としての忠度の心のさけび、血の叫びだった
俊成「このような形見を賜る以上、疎略には扱いません」
この声を聞いた忠度は「今はこの憂き世に思いおくことなし」
と西へ向かった。




範頼、義経を大将に、六万騎を二つに分け、大手は範頼五万の兵、生田の 森に押し寄せる。搦め手は義経、一万の兵力、鵯越からの奇襲、この奇襲に
平家の本陣はもろくも崩れた。そこへ生田の主兵力が雪崩れ込む。
平家の一門の人々は討たれ、船にて西や四国を目指して落ちて行く。
これが後に言う「一の谷の合戦・鵯越」なり
忠度は西の大手の将軍だったが、やむなく雑兵にまぎれて西へ落ち行く。

源氏の兵、岡部の六弥太、これを見つけ
「それへ落ちたまうは、平家の大将とお見受けしたお返しあれ」
「何を生意気な奴が」
と取って返し、馬の上にて組みあった。




馬から落ちた二人、忠度は六弥太を組み伏せ、首を取らんとした時に、六弥太の家来が、後ろより忠度の右の腕を斬りおとした。
忠度、左の腕で六弥太をはね飛ばし、静かに西に向かい、念仏を唱えられる六弥太、お首を打ち落とす。そして良く見れば、濃い紺色の錦の直垂に、
黒糸縅の鎧、年齢もまだ若い公達だった。そして箙をみれば不思議にも短冊がつけられていた。歌は、
「行き暮れて 木の下蔭を宿とせば 花や今宵の主ならまし 忠度」
と書かれていた。




忠度の悲願であった「千載集」への勅撰はどうだったか。 俊成が選んだのは
「さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」
しかしこの歌にはこれを詠んだ歌人の名はなく「詠み人しらず」となっていたのだ。これはすでに平家追放の勅令が源氏に対して出されていたからだ。
これに逆らって、平家の有名な公達の歌とは いくら歌の権威である俊成でもできなかった。




はじめに出てきた旅の僧、 「若木の桜の下で見た男はなんだったのだろう。多分、忠度の亡霊だったのだろう。暫く逗留してねんごろに弔いしていこう。」
「恥ずかしや、亡き跡に姿をあらわして、迷うあまりの物語、ただでさえ妄執の多いこの娑婆に、千載集に選ばれたにも逆臣の身の哀しさ、読み人知らずと書かれたこと、妄執の第一なり。その選者の俊成卿も亡きひとになられた、
ならば、あなたは身の内なれば定家卿に、作者を付けていただく様にお願いして欲しい。」亡者は消えた。
須磨の浦は多くの平家びとの命を呑み込んだ。華麗なその文化と共に。




ほぼ二年間にわたり能・謡曲をテーマにして続けた、このシリーズもこの20作目で終わる、これ以上は惰性になってしまう。しかしまだまだ幽玄・優雅の世界は奥が深い、また異なる手法で再挑戦するかも知れません。有難う御座いました。次は何に取り組むか苦悩が始まります。次も宜しくお願いします。




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